- 漫筆~麻酔雑記~
- 投稿者:嶋田病院 麻酔科 吉永 明彦
電車通勤をはじめて2か月が経ちました。この文章を書いている今現在、窓から見える木々には辛うじて残った葉も赤茶けて、時々強まる風に舞い落ちる、寒々とした11月末です。朝の冷え込みが厳しくなり、Y社の吸湿性発熱素材でできたシャツを重ね着して毎朝家を出ます。余談ですが、この素材のシャツは極細の化学繊維で出来ており、重ね着すると静電気が発生しやすいそうです。そういえば最近ドアノブや車のドアの把手が怖くなってきていました。重ね着が原因だったのでしょうか。肌がカサカサしてきたのも、年齢のせいかと諦めていましたが、吸湿素材の副作用でしょうか。
コロナの第3波がもうそこまで迫っています。はやくワクチンが完成して、この文章を皆様にお読み頂いている頃には状況が好転していることを唯々祈るばかりです。
もう3年も前のことになりますが、手術室看護師のK氏達と数名で日本手術医学会に参加する機会がありました。学会の折にはいつもの習慣なのですが、朝は野菜ジュースとヨーグルトを手早く摂って、早めに会場入りします。その日の朝は、学会発表を前に緊張の面持ちのK氏の表情と重なるように、どんよりとした生憎の曇り空でした。会場までは歩いて10分程度でした。道すがら、見覚えのある真っ白な大輪の花が、曇り空の下で気だるそうに項垂れているのを見つけました。見上げてみるとそこはペインクリニック(痛みの専門医)の医院でした。これは吉兆です。今日のK氏の学会発表は成功裡に終わることだろう、そう思いました。
皆さんはご存知でしょうか。世界で初めて全身麻酔での手術に成功したのは、日本人であるということを。
今から、200年以上も昔の江戸時代、時は徳川十一代将軍家斉の世。都では厳格すぎる緊縮政策を行った松平定信が失脚し、賄賂の横行や治安の悪化など、幕政が傾き始めていた頃でした。紀伊の国の医師、華岡青洲は、チョウセンアサガオを主成分とした「通仙散」という麻酔薬を調合し、数々の動物実験や人体実験を重ねた末、1804年(文化元年)遂に世界で初めて全身麻酔での手術に成功しました。残念ながら、その後東洋医学に端を発した青洲の全身麻酔法は廃れてしまいましたが、米国の歯科医ウイリアム・モートンが近代麻酔の源流であるエーテルによる全身麻酔手術に成功する40年以上も前の出来事でした。
私が麻酔科医になった25年程前に、上司から「麻酔科医には“ビジランス”が最も重要だ」と教わりました。constant vigilance = 絶え間なき監視。麻酔科医は、手術を受ける患者さんに麻酔薬を使って、眠らせて痛みを感じなくさせることがその役割です。しかし、実際にはそれだけではありません。最も重要な任務は、手術・麻酔・持病の悪化の3つの危険から患者さんの体を守ることなのです。手術により血圧や脈拍が上がります。上がり過ぎると、心臓や脳の血管などへ大きな負担がかかります。出血が増えれば血圧が下がり、内臓への血液の供給が不足してしまいます。つまり手術自体が人間の体にとって悪影響を及ぼしてしまいます。それを最小限に抑えるために麻酔薬を使うのですが、麻酔薬それ自体にも体への悪影響があります。麻酔薬は心臓の働きを抑制し、血管を拡張させることで血圧を下げてしまいます。呼吸を弱めて、気道を閉塞してしまいます。人間には本来危険から逃避するための様々な反射機能が備わっていますが、麻酔薬はその反射機能を体から奪ってしまいます。体は無防備の状態に晒されるのです。そしてこれが最も手強い相手なのですが、患者さんの持病という問題です。足の骨折で手術を受ける患者さんが、重症な心臓病を持っていることがあります。お腹の手術を受ける患者さんが脳卒中や肺炎を持っているかもしれません。これらの持病が悪化しないように、手術前から持病の状態を把握して、適切な麻酔薬を選んで、適切な量を使用して、時々刻々と変化する患者さんの状態を監視して、血圧や脈、呼吸、体温や体液バランス、麻酔深度を適正に調節する。状態の悪化を早期発見して早期治療を行う。そして手術が終わった患者さんの(手術部位以外の)体を手術前の状態に戻す。これが麻酔科医の役割なのです。
マイケル・ジャクソンが麻酔薬で亡くなったことはあまりにも有名な話です。同じ麻酔薬は、私たち麻酔科医が毎日使用している、ありふれた麻酔薬です。不眠に悩まされていたマイケルは、主治医(麻酔科医ではありません)に頼んで麻酔薬を自宅で常用していたということです。おそらく、いつものようにマイケルがすやすやと眠っているのを確認した主治医は、「ほんの少し」と傍を離れたのでしょう。トイレに行った、と証言していたとも聞いています。ビジランスが無ければ、私たちからすれば当然の結果にも思われる出来事です。麻酔 = ビジランス と言っても過言ではありません。麻酔科医の役割はビジランス、安全のための番人なのです。
K氏の学会発表は大盛況(少し脚色はありますが)で終わりました。その後K氏は看護師長となり、今も日々活躍健闘しています。因みに、チョウセンアサガオの花言葉の一つは“陶酔”だそうです。さらに、“遠くから私を思って”というロマンティックな花言葉もあるようです。麻酔科医なら傍で見守りますが。
令和3年1月