一般社団法人 小郡三井医師会

病気と健康の話

  • 「医師の倫理と知性」について
  • 投稿者:徳富クリニック 院長 徳富 康男

30余年前、私が医師になって間もなく得た知識で、現在も影響を受け続けている山岡憲二さんの「医師の倫理と知性」を紹介します。
医学とは何かいう問題であるが、それは生きたいという人間の欲望に奉仕する学問だ、と考えることができる。しかし人は必ず死ぬものであるから、医学は人の死にかた死なせかたを攻究する学問だ、とすることもできる。この生きたいと欲望しながら必ず死ぬという人間の弱さ、これを仕事の対象とするからには、そこに医学の道徳性があり、医学に道徳性があるからには、それに対応するものとして、医師に倫理が要求される。しかし医療行為は医師と患者との相互関係で成り立つものであるから、この要求は患者側にもある。医師の倫理は医は仁術なりとの言葉で現されているが、その真髄は、日頃の絶えざる研鑽と永年の誠実な医療行為とによって、自ら身に着くものであって、教えこまれるものではない。有吉佐和子さんの華岡青洲の妻という小説は、愛欲に対する女の執念が、いかに凄まじいものであるかに終始していると思われるが、その中で、呑んだくれで、幼名を雲平と呼ぶ息子の青洲の自慢話ばかりしているという父の直道が、雲平はべつに勝れた子供とも思わないが、華岡家は医家として雲平で五代になる。そのあいだ、医者として誰ひとりよこしまなことをしたものはない。ひとが寿命で死んでもしまった、またやった、何とか助ける工夫はなかったものかとの思いが、積りに積っている。もうここらで華岡家にも、よい医師が出てもよいのではないか、というくだりがある。ひとが寿命で死んでも、しまった、またやった、何とか助ける工夫はなかったものかとの内省が大切で、これが医学の進歩の始まりであり、医道のもとであるように思われる。利潤追求が本質である資本主義社会にあっては、医業もその例外ではあり得ないが、医療がもともと福祉を本質とするものである以上、どこかで線を引く必要があり、どこで線を引くかは、教養人としての医師個人の知性の問題であろう。

山岡憲二
日本学士院会員
元九州大学教授
三木会150回記念誌P3-4 の一部(昭和51年2月11日発行)

PAGE TOP